少女病 (そのまま形式)
2010-03-30


でもあとをつけるほど気にも入らなかったとみえて、あえてそれを知ろうともしなかったが、ある日のこと、男は例の帽子、例のインバネス、例の背広、例の靴(くつ)で、例の道を例のごとく千駄谷の田畝にかかってくると、ふと前からその肥った娘が、羽織りの上に白い前懸(まえか)けをだらしなくしめて、半ば解きかけた髪を右の手で押さえながら、友達(ともだち)らしい娘と何ごとかを語り合いながら歩いてきた。いつも逢う顔に違ったところで逢うと、なんだか他人でないような気がするものだが、男もそう思ったとみえて、もう少しで会釈をするような態度をして、急いだ歩調をはたと留めた。娘もちらとこっちを見て、これも、「あああの人だナ、いつも電車に乗る人だナ」と思ったらしかったが、会釈をするわけもないので、黙ってすれ違ってしまった。男はすれ違いざまに、「今日は学校に行かぬのかしらん? そうか、試験休みか春休みか」と我知らず口に出して言って、五、六間無意識にてくてくと歩いていくと、ふと黒い柔かい美しい春の土に、ちょうど金屏風(きんびょうぶ)に銀で画(か)いた松の葉のようにそっと落ちているアルミニウムの留針(ピン)。
 娘のだ!
 いきなり、振り返って、大きな声で、
 「もし、もし、もし」
 と連呼した。
 娘はまだ十間ほど行ったばかりだから、むろんこの声は耳に入ったのであるが、今すれ違った大男に声をかけられるとは思わぬので、振り返りもせずに、友達の娘と肩を並べて静かに語りながら歩いていく。朝日が美しく野の農夫の鋤(すき)の刃に光る。
 「もし、もし、もし」
 と男は韻を押(ふ)んだように再び叫んだ。
 で、娘も振り返る。見るとその男は両手を高く挙(あ)げて、こっちを向いておもしろい恰好(かっこう)をしている。ふと、気がついて、頭に手をやると、留針(ピン)がない。はっと思って、「あら、私、嫌(いや)よ、留針を落としてよ」と友達に言うでもなく言って、そのまま、ばたばたとかけ出した。
 男は手を挙げたまま、そのアルミニウムの留針を持って待っている。娘はいきせき駆けてくる。やがてそばに近寄った。
 「どうもありがとう……」
 と、娘は恥ずかしそうに顔を赧(あか)くして、礼を言った。四角の輪廓をした大きな顔は、さも嬉しそうににこにこと笑って、娘の白い美しい手にその留針を渡した。
 「どうもありがとうございました」
 と、再びていねいに娘は礼を述べて、そして踵(きびす)をめぐらした。
 男は嬉しくてしかたがない。愉快でたまらない。これであの娘、己(おれ)の顔を見覚えたナ……と思う。これから電車で邂逅(かいこう)しても、あの人が私の留針を拾ってくれた人だと思うに相違ない。もし己が年が若くって、娘が今少し別嬪(べっぴん)で、それでこういう幕を演ずると、おもしろい小説ができるんだなどと、とりとめもないことを種々に考える。聯想(れんそう)は聯想を生んで、その身のいたずらに青年時代を浪費してしまったことや、恋人で娶(めと)った細君の老いてしまったことや、子供の多いことや、自分の生活の荒涼としていることや、時勢におくれて将来に発達の見込みのないことや、いろいろなことが乱れた糸のように縺(もつ)れ合って、こんがらがって、ほとんど際限がない。ふと、その勤めている某雑誌社のむずかしい編集長(へんしゅうちょう)の顔が空想の中にありありと浮かんだ。と、急に空想を捨てて路を急ぎ出した。

       三


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