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aaa ― 2010-04-16 18:20
イギリス海岸

宮沢賢治




 夏休みの十五日の農場実習の間に、私どもがイギリス海岸とあだ名をつけて、二日か三日ごと、仕事が一きりつくたびに、よく遊びに行った処
ところ
がありました。
 それは本たうは海岸ではなくて、いかにも海岸の風をした川の岸です。北上
きたかみ
川の西岸でした。東の仙人
せんにん
峠から、遠野を通り土沢を過ぎ、北上山地を横截
よこぎ
って来る冷たい猿
さる
ヶ石
いし
川の、北上川への落合から、少し下流の西岸でした。
 イギリス海岸には、青白い凝灰質の泥岩が、川に沿ってずゐぶん広く露出し、その南のはじに立ちますと、北のはづれに居る人は、小指の先よりもっと小さく見えました。
 殊にその泥岩層は、川の水の増すたんび、奇麗に洗はれるものですから、何とも云

へず青白くさっぱりしてゐました。
 所々には、水増しの時できた小さな壺穴
つぼあな
の痕
あと
や、またそれがいくつも続いた浅い溝
みぞ
、それから亜炭のかけらだの、枯れた蘆
あし
きれだのが、一列にならんでゐて、前の水増しの時にどこまで水が上ったかもわかるのでした。
 日が強く照るときは岩は乾いてまっ白に見え、たて横に走ったひゞ割れもあり、大きな帽子を冠
かむ
ってその上をうつむいて歩くなら、影法師は黒く落ちましたし、全くもうイギリスあたりの白堊
はくあ
の海岸を歩いてゐるやうな気がするのでした。
 町の小学校でも石の巻の近くの海岸に十五日も生徒を連れて行きましたし、隣りの女学校でも臨海学校をはじめてゐました。
 けれども私たちの学校ではそれはできなかったのです。ですから、生れるから北上の河谷の上流の方にばかり居た私たちにとっては、どうしてもその白い泥岩層をイギリス海岸と呼びたかったのです。
 それに実際そこを海岸と呼ぶことは、無法なことではなかったのです。なぜならそこは第三紀と呼ばれる地質時代の終り頃
ころ
、たしかにたびたび海の渚
なぎさ
だったからでした。その証拠には、第一にその泥岩は、東の北上山地のへりから、西の中央分水嶺
ぶんすゐれい
の麓
ふもと
まで、一枚の板のやうになってずうっとひろがって居ました。たゞその大部分がその上に積った洪積の赤砂利や※
ローム
[#「土+母」、102-13]、それから沖積の砂や粘土や何かに被
おほ
はれて見えないだけのはなしでした。
それはあちこちの川の岸や崖
がけ
の脚には、きっとこの泥岩が顔を出してゐるのでもわかりましたし、又所々で掘り抜き井戸を穿
うが
ったりしますと、ぢきこの泥岩層にぶっつかるのでもしれました。
 第二に、この泥岩は、粘土と火山灰とまじったもので、しかもその大部分は静かな水の中で沈んだものなことは明らかでした。たとへばその岩には沈んでできた縞
しま
のあること、木の枝や茎のかけらの埋もれてゐること、ところどころにいろいろな沼地に生える植物が、もうよほど炭化してはさまってゐること、また山の近くには細かい砂利のあること、殊に北上山地のヘりには所々この泥岩層の間に砂丘の痕
あと
らしいものがはさまってゐることなどでした。さうして見ると、いま北上の平原になってゐる所は、一度は細長い幅三里ばかりの大きなたまり水だったのです。
 ところが、第三に、そのたまり水が塩からかった証拠もあったのです。それはやはり北上山地のへりの赤砂利から、牡蠣
かき
や何か、半鹹
はんかん
のところにでなければ住まない介殻
かひがら
の化石が出ました。
 さうして見ますと、第三紀の終り頃、それは或
あるい

(省略されました)

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